ちょっと真面目な話だが、最近思った事なので辛く行こう。
誤解を招くかもしれないが、いじめられた事の無い奴なんていない。

顕在化しているいじめなんて、結局の所末端に過ぎない。
潜在しているいじめが次々と下層に遷移して末端に至るという訳だ。

『でも、いじめには実行する人がいるでしょ?』確かにそう見える。
しかし、実の所いじめる側も何らかの問題を抱えているのだ。

俺が知ってるケースなので限定された話ではあるが、挙げてみよう。
父親が亡くなってから、中立の立場からいじめる側に回った人がいた。

強いリーダーシップを維持する為に、弱者に強く当たった人もいた。
頭が悪いと思い込んでいて、ひねて成績の良い奴をいじめる人もいた。

いじめる側の人間は根本に理が無く、その行為のみを欲していた。
短絡的で、どこか追い込まれているような感じすら受けた。

これではどちらも置かれている状況は、そう変わらないではないか。
そして、自殺に至る理由も結局の所『短絡的』にしか見えない。

思うに、声高に『いじめられた』と叫ぶ人は叫ぶ事しかできない人。
叫ぶ事で、糾弾する事で、いじめた相手に復讐したい人なのだ。

『いじめられた』と叫べば、今では周りは過敏に反応してくれる。
いじめる側がいじめに至った些細な軋轢など吹き飛ばして、だ。

いじめで自殺するのはいじめた相手を『いじめる』行為。
根本の思考は相手とまったく変わってはいないように私は感じる。

直接的な死に至るようないじめは勿論無くさなければならない。
だが、間接的に死に至ったいじめは、そこで終わりと錯覚してしまう。

いじめで自殺した人の棺桶の中を覗いて、ニヤニヤしていた人がいる。
本心であれ、嘘であれ、その人間の心に影を落とした事に変わりない。

前者であれば、今後もいじめで人を殺す人間になるのだろう。
後者であれば、今後は嘘で自分を塗り固める人間になるのだろう。

これが決着と言えるのか?否、断じて否だ。このまま世に出るのだぞ?
この人間に自分の行為とその動機を認識させねば終焉では無い!

私見だが、報道がいじめに触れるのは、小さい方が良いように思う。
上記の理由も含め、便乗とも思える事件があった事からも、だ。

そして、もっとツッコんだ原因究明と解決に乗り出すべきだろう。
家庭干渉とかそんな事言ってはいられない、その家庭のためにもだ。

ちなみに、私は異質ゆえにいじめられていた側の人間です。
しかし、揺るぐ事の無い友情のおかげで今の私がいます。

結局は揺るぐ事の無い何かを見つける事で、解決できるんでしょうね。
それが、今のオタク文化の台頭なのかも知れませんけどね。

以上、極端で同意できぬ部分も多いでしょうが、これが私の考えです。
いっやー、ホントの所はどうなんだろうねぇ。ではまたの機会に。

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